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最初のジャズレコード録音がされる1917年以前のジャズ歌唱(Jazz Singing)については記録がないので不明である。 しかしながら、これについては、黒人の農園でのハラーやワーク・ソング(field hollers and work songs)にまでさかのぼることが出来よう。 あるいは教会でのスピリチュアル、今日においても多くのジャズシンガーが最初に歌唱の影響を受けるのは教会からである、も含めることが出来る。 ミンストレルやヴォードヴィルなどのショーでの歌唱も加えられよう。マ・レイニー(Ma Raney)*、ベッシー・スミス(Bessie Smith)*などの クラシック・ブルース歌手は、テント劇場や旅回りのレビューで歌っていた。一方、1920年まで、ニュー・オーリンズのジャズ楽団に歌手は含まれず、 ピアニストのジェリー・ロール・モートン(Jelly Roll Morton)*やトニー・ジャクソン(Tony Jackson) などが歌ったものの演奏の主要なパートとは言えなかった。   当時は、ヴォードヴィル及び舞台ミュージカルが新しい歌を提供するための、二つの手段であり、アル・ジョルスン(Al Jolson)、 ソフィー・タッカー(Sophie Tucker)のような歌手に採用されることは、人気を得るための手段であった。  マイクロフォン以前の時代は、歌手にとって大事なことは、明瞭に大きな声で歌うことが重要であった。 1917以前の二人の重要な男性歌手として、ビリー・マーレイ(Billy Murray)、ジーン・グリーン(Gene Greene)*がいた。 マーレイは熱狂的かつ親近感のある声で大人気をはくした。グリーンはラグタイム・キングと称された最初にスキャットを歌った歌手であり、 1911年に録音もしている。彼はラグタイム、シンコペーション、時にはミリタリー・ドラムを真似た歌い方もしたという。   最初にジャズを録音したのは、マリオン・ハリス(Marion Harris)*であり、1916年に "I Ain't Got Nobody (Much)", "I'm Gonna Make Hay While Sun Shines in Virginia"を、 ODJBが史上初のジャズ録音をする前に録音している。これらの歌唱がジャズと言えるかはともかく、 リラックスしたフレイジングの歌唱は十年先を行っていたと言ってよいだろう。彼女は大歌手とは言えないが来るべき時代の礎を築いた。   次のマイルストーンと言えるのは、マミー・スミス関内キャバクラ(Mammie Smith)*が1920年に録音した"Crazy Blues"だろう。 最初の黒人女性歌手によるブルース録音は、意外な成功をおさめ黒人を対象としたレコード市場を開拓した。 ブルース・ブームは1921-1924に多くの歌手を送り出した。これらには、アルバータ・ハンター(Alberta Hunter)*、 エセル・ウオーターズ(Ethel Waters)*、マ・レイニー(Ma Rainey)*、ベッシー・スミス(Bessie Smith)*などが含まれる。   例外的にクラシック・ブルース歌手やアル・ジョルスンなどの大歌手は1920年代後半まで、彼らのスタジオ録音は無名の楽団をバックに録音していた。 演奏家たちはレコードを売るための必要悪的な扱いだったのだ。特に白人バンドにおいては、不釣り合いな歌手が歌っている例が見られた。 所が例外はあるもので、ウクレレ・アイク("Ukulele Ike")として知られたクリフ・エドワーズ(Cliff Edwards)*は、 最初の男性ジャズ歌手と言えよう。彼は、スキャットで歌い、リズミカルに歌い、時には当時のトップ・ジャズ演奏家、 Carleton Coon, Joe Sandersとの録音もしたこともある   しかしながら、それもルイ・アームストロング(Louis Armstrong)*の出現までであった。彼はジャズ及びポップ畑においてジャズ・フレイジング、 インプロヴァイジングを歌唱に持ち込み、それまでは犯すべきでなかった楽譜に書かれた通りの歌唱を、音程、休止、 言葉などを変えることによって革新したのだ。彼は、最初のジャズ歌手でも最初にスキャットを創造した人間ではないものの、 彼はジャズをポピュラーなものに変えるとともに芸術の域にまで高めた人でありその後の十年をリードしたのであった。 ビング・クロスビー(Bing Crosby)は、これを聞き、リズム・ボーイズ(Rhythm Boys)あるいはソロ歌手として卓越した才能を高め、 ポップ歌唱の中にジャズ感覚を持ち込んだのだった。   女性の方はというと、エセル・ウォーターズはクラシックなブルースから、1920年代後半にはジャズ、ポップ、 スウィングまで歌いこなす柔軟性を見せた。彼女はミルドレッド・ベイリー(Mildred Bailey)に影響を与え、 更にベイリーの影響を受けたリー・ワイリー(Lee Wiley)なども生んだ。ボスウェル・シスターズ(Boswell Sisters)は最も優れたグループであり、 エキサイティングな速いテンポのアレンジや、ムードを変えた熱いスキャットなどを聞かせた。アネット・ハンショー(Aneette Hanshaw)*は、 ジャズの感覚が染みついた人であり、一方ルース・エッティング(Ruth Etting)は女性版ビング・クロスビーと称されよう。   1930年代にスウィング・ビッグ・バンドの人気が高まるにつれ、多くの楽団は男性及び女性の歌手をフィーチャーするようになった。 ビッグ・バンド卒業生として有名なのは、チック・ウェッブ楽団のエラ・フィッツジェラルド(Ella Fitzgerald)、 トミー・ドーシー楽団のフランク・シナトラ(Frank Sinatra)、カウント・ベイシー楽団のジミー・ラッシング(Jimmy Rushing)と ヘレン・ヒュームズ(Helen Humes)、アール・ハインズ楽団のビリー・エクスタイン(Billy Eckstine)、ジーン・クルーパ楽団の アニタ・オディ(Anita O'Day)、ベニー・グッドマン楽団のペギー・リー(Peggy Lee)、レス・ブラウン楽団のドリス・デイ(Doris Day)、 ビリー・エクスタイン楽団のサラ・ヴォーン(Sarah Vaughan)などが挙げられる。キャブ・キャロウエイ(Cab Calloway)は自身の楽団を持っていた。 ビリー・ホリディ(Billie Holiday)は、くつろいだフレイジングとドラマティックな人生は誰とも異なる崇拝を受けることになる。 自身のスモール・グループでエンジョイするファッツ・ウォーラー(Fats Waller)、スウィング系のピアニストから出発しクルーナーとして 影響を与えたナット・キング・コール(Nat King Cole)などもいる。   ビーバップの勃興期は、エラ・フィッツジェラルド、サラ・ヴォーン、ビリー・ホリディなどの女性シンガーが主役の座を奪った。 ダイナ・ワシントンは新進のスターであったが彼女はビッグ・バンドとは無関係であった。彼女たちだけでなく多くの歌手がソロとして 多忙な時期を過ごした。キャブ・キャロウェイから生まれた、ジャイヴ歌唱の人気者には、スリム・ゲイラード(Slim Gaillard)、 レオ・ワトソン(Leo Watson)がいる。ジャイヴはビーバップ志向のバブス・ゴンザレス(Babs Gonzalez)にも影響した。 ヴォーカリーズのパイオニアとしてはビー・パルマー(Bea Palmer)(1929)、マリオン・ハリス(1934)*がいるが、 実質的には1940年代後半にエディ・ジェファーソン(Eddie Jefferson)によって創生された。彼に続くのは、 キング・プレジャー(King Pleasure)、デイヴ・ランバート(Dave Lambert)、ジョン・ヘンドリックス(Joh Hendricks)、 アニー・ロス(Ann Ross)などがいる。1950年代後半のランバート・ヘンドリックス&ロスは、マンハッタン・トランスファー (Manhattan Transfer)などにも影響を与えた、偉大なヴォーカリーズ・グループである。   1950年代は、クールが注目された時代であり、ペギー・リー、ジューン・クリスティ(June Christy)、クリス・コナー(Chris Connor)、 ヘレン・メリル(Helen Merrill)、ジュリー・ロンドン(Julie London)、チェット・ベイカー(Chet Baker)など。 新たな大歌手としてカーメン・マクレー(Carmen McRae)、ジョー・ウィリアムス(Joe Williams)、レイ・チャールズ(Ray Charles)− 彼はゴスペルの熱気をソウル・ミュージックに持ち込んだ人である、ジミー・ウィザースプーン(Jimmy Witherspoon)などがいる。 エラ・フィッツジェラルド、サラ・ヴォーンは50年代においても大御所であった。   60年代は、台頭したロックにどう対処するか苦しみ、コマーシャルなレコーディングをするかレコーディングから遠ざかるようになる。 例外として、カントリー・ブルース&ビーバップ学者然としたモーズ・アリソン(Mose Allison)、激情的、政治的なアビー・リンカン (Abbey Lincoln)、初代ボサ・ノヴァ女王のアストラット・ジルベルト(Astrud Gilberto)や、パティ・ウォーターズ(Patty Waters)を 含む前衛的なパイオニアたちがいる。1960年代後半から70年代前半のフュージョン時代は、歌手の出番は少なかったが、 ブラジルのフローラ・プリン(Flora Burim)は人気を博した。   しかしながら、1970年代中期になると、アコースティック・サウンドが好まれるようになり、歌手の間からも伝統的なジャズ歌唱を志向しても 悪いことはないという考えが一気に広まった。スザンナ・マコークル(Susannah McCorkle)は第二次大戦後生まれの歌手でありながら、 大戦前のスタンダードを歌った歌手である。バニュー・ギブソン(Banu Gibson)、レベッカ・キルゴア(Rebecca Kilgore)、 ダイアナ・クラル(Diana Krall)、ジェーン・モンヘイト(Jane Monheit)などもそれに続く若手歌手であった。シーラ・ジョーダン(Sheila Jordan)、 シャーリー・ホーン(Sherley Horn)などのベテラン歌手もレコーディング活動を復活させた。シンガー&ソング・ライターの伝統は、 ホーギー・カーマイケル(Hoagy Carmichael)*が祖といえるが、デイヴ・フィリッシュバーグ(Dave Frishberg)、ボブ・ドロー(Bob Dorough)、 ブロッサム・ディアリー(Blossom Dearly)などの作品も再び活気を与えることになる。ベティ・カーター(Betty Carter)、マーク・マーフィー (Mark Murphy)は、しばしばスタンダードを歌うが、素晴らしいインプロヴィゼーションで、スタンダードを超えたビーバップ的なものにまで発展させた。 一方、アル・ジャロー(Al Jarreau)、ボビー・マクファーリン(Bobby McFerrin)は驚異的な声を聞かせるものの、 潜在的な能力をジャズだけに発揮したわけではなかった。カート・エリング(Kurt Elling)およびボビー・マクファーリンはこの十年における 最も重要な男性歌手と言える。   男性ジャズ歌手は少ないものの、女性歌手は数多いるのが今日の状況である。以上に上げた歌手以外にも次の歌手をリストに加えねばならないだろう。 ダイアン・リーヴス(Diane Reeves)、カサンドラ・ウィルソン(Casandra Wilsong)、ディー・ディー・ブリッジウォーター(Dee Dee Bridgewater)、 ダイアン・シューア(Diane Schuur)、ニーナ・フリーロン(Nnenna Fleelon)、ロザンナ・ヴィトロ(Rossanna Vitro)、カリン・アリソン(Karrin Allyson)、 ケンドラ・シャンク(Kendra Shank)、アディ・ブラウン(Aid Braun)、ロベルタ・ガンバリーニ(Roberta Gambarini)、そして多くのこれから活躍する人たち。 私はある女性の使い走りをしたものよ。使い走りなんて好きじゃなかったし、今でもケースを抱えて街を歩こうなんて思わないけど、 でも私はその女のために使いをしたの。だって彼女は、ベッシーの全てのレコードやアームストロング親父さん(Pops)の ウェスト・エンド・ブルースを聞かせてくれたからよ。   ウェスト・エンド・ブルースは大好きだったけど、なんで親父さんは歌詞を歌わなかったのか不思議に思ったの。 私は多分親父さんの気分がひどく悪いときに歌ったからだったと思ったの。私がニュー・ヨークに行った時、 ラファイエット劇場に親父さんのその歌を聞きたくて行ったけど、彼は歌わなかったの。私は舞台裏に行ってそのことを親父さんに言ったの。   9歳ころからだと思うけど、ベッシーや親父さんの歌を聞いてきたの。勿論、母はそんな歌は罪深いものと思っていたようで、 私が聞いていると私を叩いたの。その当時は、私たちは賛美歌とかそんな類のものを聞くべきだと思われていたのね。   嘘偽りのない話だけど、私と母は飢えていたの。寒くて、10歳ころに父は出て行って他の女と結婚していたわ。 母は家政婦だったけど仕事が見つからなかったの。私は床磨きをしようとしたけど出来なかったわ。   私たちは、7番街に近い145通りに住んでいたの。ある日私たちは腹ぺこで息もできなかったくらいだったの。私は家を飛び出したの。 とても寒くて、7番街に沿って145通りから133通りを歩いたの。どうしようもなくなって、ジェリー・プレストンが経営する ログ・キャビン・クラブの前で立ち止まったの。私は飲み物を頼んだの。お金なんか10セントもなかったの。 でも私はジンを頼み、それが私の初めてのお酒、ジンとワインの違いも分からなかったけど、ジンを飲み込んだの。 プレストンに私はダンサーで踊れると言ったの。彼は踊るように言ったわ。私は踊ろうとしたけど、彼に全然だめだと言われたの。 私は歌えると言ったら、彼は歌えと言ったの。隅っこには、年寄りの男がいてピアノを弾いていたわ。彼は、Travelin' を叩き始め私は歌ったわ。 客たちは飲むのをやめてこちらを向いて聞きいったの。ピアノ弾きのディック・ウィルソンは、Body and Soulをスウィングし始めたわ。 まったくその時のみんなを見て欲しかったわ、みんな泣き始めたの。プレストンが私のところへ来て、「お譲ちゃん、あんたの勝ちだ」と言ったの。 それが私の始まりだったの。   最初にサンドイッチをもらって食べたの。信じられるかしら、お客は私に18ドルのチップをくれたの。私は店を出て、 チキン一羽を買ったの。7番街を通って家に帰って、母と夕食を食べたの。それ以来食べるには困らなくなったの。 CARMEN McRAE   ビリー・ホリディに関してだけど、何と言ったらいいのかしら。私の知る限り、彼女の最悪の敵は彼女自身ね。彼女は変な女性で、 神経過敏なところがあったわ。彼女のもって生まれたものだと思うけど、でもそれが彼女をスターにした理由と言っているわけじゃないの。 彼女は長い間とても不幸を背負ってきたわ。今はどうかわからないけど。私が思うに彼女が不幸だったことが彼女の問題の原因だと思うの。   彼女のことについて言うと、彼女は彼女のやり方で歌っているの。あなたがレコードを通して聞けるのは、本当の「レイディ」なのよ。 たとえジャンプするような曲でもバラードでも、レコードからとらえられるのが本当の「レイディ」なのよ。いつだって、 歌うことがただ一つ、彼女自身の思いを表現する手段なの。歌うことだけが彼女の楽しみなの。誰かと会ったときに、 彼女が自分の思いを誰かに伝えられるなんて出来ないと思うの。歌っている時だけが彼女の心が休まる時。つまりだから彼女は歌うわけ、 酒とかそれ以外のものの影響にある時でなくってね。   彼女はとても予測しがたい人なの。観客は彼女に聞き入り彼女に同情し完璧にやる夜もある。でも次の夜になるととんでもない歌を歌うこともあるの、 表現が悪いのはごめんなさい。   彼女は私のアイドルだったの。彼女に間違いなんて犯せるはずなかったの。彼女が幸せだったころを思い出すわ、とても昔の頃だったけど。 そのままなら、彼女は今のようでなくもっと良くなったはずなのに、彼女は使わなかったの。彼女は世界最高の資質を持っているのよ、あの娘は。 彼女のお母さんは彼女を育てとても愛したの。たぶん彼女を支えたものはそれだったのね。たぶん彼女のお母さんが亡くなってから、 ヤク漬けになったのかしら。   彼女のお母さんの、サディーはただ一人の係累だったはずよ。お母さんがなくなって彼女はひとりも親戚がいなくなったの。 私はお母さんをよく知っているし、とてもビリーを愛していたわ。覚えているのは、お母さんの葬式の帰りに、 ビリーが夫のジョー・ガイに言ったの。何度も何度も「ジョー、私にはこの世にあんたしかいないのよ」って。 彼女は誰かにそう言いたかったのね。彼女は本当に一人ぼっちと感じたから。 シカゴとは逆方向に、ミシシッピ河を南へ下る黒人達がいた。 世界第四の大河、米国を南北に貫くミシシッピ河。 その河口の町では、港湾労働や軍事産業など、良い働き口があると黒人達の間で噂されていたのだ。 彼らが目指したのは、スペインやフランス統治時代の面影と、西欧と米国南部の文化が融合された「ケイジャン/クレオール文化」を残す美しい町、ルイジアナ州ニューオリンズ。 奴隷解放後も、ニューオリンズでは強烈な人種差別が存続していた。 黒人の音楽活動も厳しく制限され、週にたった一度の日曜日、町でたった一箇所コンゴ・スクエア(現在のルイ・アームストロング公園の一角)という場所でのみ、音楽活動が許されていた。 (現在のコンゴ・スクエアへは、まず行かないほうが無難。ただでさえ治安の悪い地域にあるうえに、2005年のハリケーン"カトリーナ”による大洪水の影響がいまだに残り、治安の悪さに拍車がかかっている。) 音楽的教養のない黒人達がかもし出す音は、まさに魂の叫びだった。 極度の貧困にあえぐ黒人達が持ち寄る楽器は、彼らが命以外に持ちえた唯一の財産だった。 そして彼らは、仲間たちと出会い、即興演奏の中で音を共有する喜びを知った。 「ジャム・セッション」の始まりだ。 ブルースの旋律、西欧の楽器、そして奴隷制250年の間、黒人の遺伝子の中で眠っていたアフリカのリズム。 この3つが出会い、ジャズが生まれた。 今回アップした動画は、現在のコンゴ・スクエアの様子です。 2005年の大洪水の直後と比べると、かなり復興が進んでいます。 「ジャズ生誕の地」コンゴ・スクエアでは、毎年秋に『コンゴ・スクエア・リズム・フェスティバル』が開かれます。 同じニューオリンズのお祭りでも、全米最大級のお祭り『マルディグラ』や、音楽の祭典『ジャズ&ヘリテイジ・フェスティバル』と違い、『コンゴ・スクエア・フェスト』は規模も小さく、黒人の歴史的伝統を前面に押し出したお祭りです。 2007年スタートとまだ歴史の浅いお祭りですが、そのぶん商業化されていない「黒人臭さ」、または「アフリカ臭さ」が感じられます。 動画で演奏されているのも、アフリカの太鼓(ジャンベが中心)を使ったアフリカのリズム。 このリズムとブルースが出会い、ジャズが生まれたんですね。 いっけん、ただの16ビートに聞こえるこのリズム。 しかしこの中には、シンコペーションや、スイングのリズムが隠れた形で満載されてます。 それらを聞き取ることができれば、ジャズ・リズム感アリかもしれません。 ニュー・オリンズは、言わずと知れたジャズの都。 古き良きニューオリンズ・ジャズやディキシーランド・ジャズが、今でも街中に溢れています。 しかも、ジャンボ生ガキやケイジャン・フードなど、ニューオリンズは全米で一番「おいしい」町。 2005年の大洪水のせいで街中が破壊され、一時は観光客どころか、住民すらもこの町を見捨てました。 しかし、ニューオリンズの町や音楽を愛する人々が再びこの町に集まりだし、徐々に復興が進んでいます。 多くの産業が破壊されてしまった現在、観光収入が一番ニュー・オリンズの助けになると、関係者は語ります。 しかし、以前に比べると、はるかに治安が悪化してしまったのは事実です。 というわけで、、どうしてもニューオリンズに行きたいという人には、次のような方法があります。 マルディグラやジャズ・フェスティバルなど、お祭りシーズンに行く。 街中人で溢れてますし、警察も大量に出てます。 観光と文化の中心地フレンチ・クオーターに的を絞る。 フレンチ・クオーター内の治安は、以前と同じくらい良くなってます。 ニューオリンズに詳しい人と一緒に行く。 やはり、「知らない」というのが一番危険ですからね。 でも、「知ってるつもり」は禁物。 1度や2度行ったことあるくらいが、一番危ないかも。 では、「ジャズの聖地」「ジャズ誕生の町」「アメリカ音楽のふるさと」「アメリカで一番楽しい町」「アメリカで一番おいしい町」などといわれるニューオリンズの町と音楽を、どうぞ満喫してきてください。